売主が売買対象となった、土地に設定された抵当権を消滅させるために金融機関に借入金を返済する行為は、手付放棄の解釈において、履行の着手とされるでしょうか。
売主が、抵当権を消滅させるために金融機関に借入金を返済する行為は、履行の着手にあたります。
さて、一般に売買契約における手付には解約手付の性格があることから、手付の授受がなされている場合には、契約成立後であっても、買主からは手付を放棄することによって(手付放棄)、また、売主からは手付の倍額を返還することによって(手付倍返し)、各々相手方の承諾を得ずに、かつ、その他の損害賠償をすることなく、一方当事者の意思表示のみによって、契約を解消することができます。民法も、買主が売主に手付を交付したときは、当事者の一方が契約の履行に着手するまでは、買主はその手付を放棄し、売主はその倍額を償還して、契約の解除をすることができる、と定めています(民法557条1項)。
そして、手付放棄又は手付倍返しによって契約を解消することができるのは、相手方に履行の着手があるまでの間です。
ここで、履行の着手とは「債務の内容たる給付の実行に着手すること、すなわち、客観的に外部から認識し得るような形で履行行為の一部をなし又は履行の提供をするために欠くことのできない前提行為をした」ことをいいますが(最高裁昭和40年11月24日判決)、具体的な局面において、売主のいかなる行為が履行の着手にあたるのかは、裁判例も多くはなく、実務上判断の難しい問題を引き起こす場面が少なくありません。
この点において、最近、東京地裁から、参考になる判決が出ています(東京地裁平成21年11月12日判決)。買主Xが、売主Yから、平成20年9月8日、T信用金庫のために抵当権が設定されている土地建物を購入し(売買代金2,380万円、手付金10万円)、Yが同年10月15日にT信用金庫に対して抵当権を消滅させるため借入金1,900万円を返済したが、その後、Xにおいて、同年11月6日に手付を放棄して売買契約を解除する旨の意思表示を行ったというケースです。
裁判所は、次のとおり述べて、売主が金融機関に借入金を返済した行為は履行の着手に該当するから、手付放棄による契約解除に効力はないと判断しました。
「Yが平成20年10月15日にT信用金庫に対して本件借入金1,900万円を全額返済した行為は、これにより本件不動産に設定した抵当権を消滅させるものであり、Yが本件売買契約10条に基づきXに対して所有権移転登記申請時期とされた同月31日までに本件不動産上の抵当権を消滅させて完全な所有権を移転させる義務を負っていたことからすると、その履行のために必要不可欠な行為であったといえる。このことは、上記行為が、YのT信用金庫に対する債務の履行であることや、Yがいかなる主観をもって行ったかにより、評価を異にするものではない。
1,900万円もの多額の債務を一括返済することは、いずれ返済しなければならないものであるにせよ、一企業にとって少なからぬ負担を伴うものである。そして、本件借入金の返済は、本件不動産の引渡し及び所有権移転登記の申請をすべき履行期である平成20年10月31日以前に行われたものであるところ、確かに、同履行期が定められたのは、Xが本件自宅を他に売却して本件不動産に転居したい旨、本件自宅の売却代金を本件不動産の購入資金に充てたい旨が動機として示されたことによるものである。しかし、他方で、Xは、本件売買契約の締結前において、ローン特約条項を不要とした上、わずか2か月弱の後に売買代金を支払うことを申し出るなど、本件自宅を他に売却する話が具体的に進んでおり、現金決済が可能である旨を表明しているのであって、その成否自体が不確実であることを何ら示していない。本件売買契約上、Xが本件自宅の売買代金を支払われることが条件とされたり、支払われない場合に契約を解除することができるともされていない。
以上の事実に加え、本件手付金がわずか10万円であって、売買代金に比べて著しく低額であることを考慮すると、上記履行期が定められた趣旨・目的が、履行期前にした行為の「履行の着手」該当性を否定することによって手付解除による契約見直しの機会を広く保障する趣旨であるとは認め難い。本件借入金の返済は、上記履行期のわずか16日前に行われたものであり、この点からみても、履行期前にした行為であることを理由に「履行の着手」該当性を否定するのは困難である。」